家族のはずだった——。信じていた人たちに、突然“犯人”の烙印を押された日。
第一子の三回忌。静かに手を合わせるはずだったその場で、私は思いもよらぬ疑いをかけられました。
「これは、あなたの?」
義母が差し出したエコバッグ——それが、すべての始まりでした。
信頼、尊厳、そして自分の居場所。
一瞬で崩れ去ったあの日の出来事と、そこから私がどう立ち上がったのかを、今ここに記します。
このブログを読んでほしい方
この体験は、私だけの特別なものではありません。
家族や義実家との関係のなかで、理不尽な言葉や態度に心を傷つけられたことがある方。
自分の声を押し殺して「我慢することが大人だ」と思ってきた方。
そして、信頼していた人から疑いの目を向けられ、自分の存在そのものが否定されたような経験をした方へ。
この記録は、そんなあなたに向けて綴っています。
「おかしい」と思った自分の感覚を信じていい。
あなたの尊厳は、誰にも踏みにじられていいものじゃない。
——この言葉が、ほんの少しでも、あなたの力になりますように。
義母からの濡れ衣——第一子の三回忌の日に告げられた衝撃
令和4年4月17日。
その日は、私にとって特別な日でした。
第一子を亡くしてから丸2年。三回忌を迎えるため、義父、義母、夫、私の4人で義実家に集まりました。
本来であれば、私の両親も三回忌に参列する予定でした。
しかし、義父から「今回はあなた一人で義実家に来てほしい」と言われ、不自然に思いながらも、私は生後2ヶ月の次男を実家の両親に預け、ひとり車で90分かけて義実家に向かいました。
後になって、この「一人で来てほしい」という言葉の意味が、思いもよらぬ形で明らかになるのです。
静かに子どもを偲ぶ時間になる——そう信じていた私は、
この日、人生を大きく揺るがす出来事に直面することになりました。
静寂を破った義母の言葉
焼香を終え、少しだけ場の空気が落ち着きを取り戻したその時、
突然、義母が口を開きました。
「昨年の12月に、会社からお金がなくなった件——T(私の夫)から聞いていると思うけど、何か心当たりある?」
まったく予期していなかったその問いに、私は一瞬、言葉を失いました。
けれども、心当たりなどあるはずもありません。
「ああ、私の入院中にTから電話で聞きました。『事務所の鍵を変えたら?』なんてTと話しましたけど……」
義母は、最初はあくまでも穏やかに、「何か知らない?」と問いかけてきました。
私は「知らないです」と即答しましたが、場に沈黙が流れました。
その沈黙に耐えきれず、私は思わず言いました。
「……え?私を疑ってるんですか?」
義父と義母を見つめて問いかけたその瞬間、義母がTに言いました。
「……あれ、持ってきて」
Tは隣の部屋からエコバッグを手に戻ってきて、それをテーブルの上に置きました。
私たち4人が囲むテーブルの中央に、それは無言で置かれました。
私はそのエコバッグを見ても、何が起きているのか理解できず、頭の中は「???」でいっぱいになりました。
義母が言いました。
「これは、あなたの?」
私は答えました。
「いいえ……これは義母のじゃないですか?使っているのを見たことがあるので、見覚えはあります」
私のその言葉に、義母はさらに言葉を重ねてきました。
「あなたの車から、このエコバッグが見つかったのよ。どういうこと?」
そのエコバッグを借りた記憶は一切なく、なぜ私の車に入っていたのか、まったく見当もつきませんでした。
「使った覚えもないですし、どうして車にあったのかも、本当にわかりません。不思議としか言えません……」
けれど、その場にいた義父・義母・夫の3人は、口を揃えたようにこう言いました。
「おかしい。車の鍵は、あなただけが持ってる。そんなこと、ありえない」
——まるで、私が“犯人”だと決めつけるかのように。
(実際には、その車の鍵は夫と私の家の玄関に置かれており、その車は会社名義のもので、私が主に使用していましたが、夫も日常的に乗っていたものでした)
次々と積み重ねられる「疑い」
その後も、義母の言葉は止まりませんでした。
「事務所でトイレットペーパーやゴミ袋がよくなくなるの。あなたが会社に置いてあるそのエコバッグに入れて持ち帰っていたんじゃない?エコバックが車にあったのがその証拠よ。」
さらに追い打ちをかけるように、こう言いました。
「あなたが入社してから、お金が消えたり、物がなくなったりする。あなたが長期入院していた時期は何も起きていないのよ。」
まるで私が、すべての原因だと言わんばかりに——
次々と疑いが積み重ねられ、言葉は容赦なく私の心をえぐってきました。
私は必死に否定しました。
「私が犯人だと思っているんですか?私たちは生活に困っていませんし、人のものを取るなんてしたことがない。」
でも、義母は引き下がりませんでした。
「お金に困っていなくても、人の物を取る人はいる。ゲーム感覚でやる人もいる。そういう“病気”の人もいるのよ。正直にいえばいいじゃない!自分が取ったと。そうでないとあなた一人のせいで他の人を疑うことになるのよ!もう子供も生まれたのだし。何十年こんなことをし続けてきたの!!そんな人に育てられる子供の気持ちも考えてもみなさい!」
――人格そのものを全否定されるような言葉でした。
私は涙をこらえながら、言いました。
「警察を呼んで、指紋でも何でも調べてください。
すぐに来てもらって、全部はっきりさせてほしいです!」
でも義父は、淡々とこう言いました。
「もう半年も前のことだろ?警察に言ったって、どうにもならんよ」
その一言で、さらに絶望感が押し寄せました。
私はもう、声も出ないほど打ちのめされていました。
涙が止まらず、嗚咽をこらえながら、それでも私は絞り出すように言いました。
「私は……やっていません。
やってないことを、“やった”なんて、言えません。
状況的に疑われても、仕方ないとは思います。
でも、本当に、本当にやっていないんです」
義父の「決定」、そして居場所を奪われる日々の始まり
最後に義父が、静かに、しかし断定するように言いました。
「今まで何十年もやってきて、こんなことはなかった。だから今後、あなたを事務所には出入りさせない。会社としての決定だ。今後の夫婦関係については息子に任せる。育児休業中だから、給付金を受け取っている間は雇用を続けるが、その後は解雇予定だ。」
その場で私は、犯人として裁かれました。
証拠もないままに、家族からも、職場からも、信頼という居場所を一気に奪われたのです。
悔しさを、人生をやり直す原動力に
私は、何も盗んでいません。
それなのに、一方的な思い込みと先入観によって、罪を着せられました。
これまで私は、博物館職員(学芸員)として、研究発表を行ったり、子どもたちに郷土教育の授業で「人道」について語ることもしてきました。
とあるブームがあった時にはテレビに出演した経験もあり、地元新聞で紹介記事を書いていただいたこともあります。
そうした積み重ねの中で、地元では少なからず“知られた存在”でもありました。
そんな私が——
「泥棒扱い」されるなんて、夢にも思っていませんでした。
大切に築いてきた人生を、そんなことで台無しにするはずがありません。
なのに、なぜ私が疑われなければならないのか——。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、悔しくて、そして心の底から呆れました。
だからこそ、私はこの悔しさを、ただの「苦しみ」で終わらせませんでした。
「絶対に許さない」——その想いを胸に、次の日には島内すべての弁護士事務所に片っ端から電話をかけました。
そして、すぐに法律相談を受けられる事務所を見つけ、動き出しました。
このまま黙っているなんて、絶対にできませんでした。
「悔しさ」は、私の人生を見つめ直し、再出発するための強いエネルギーに変わっていったのです。
最後に
「家族だから」「義実家だから」——
そうやって、黙って耐えてきた人も少なくないと思います。
私自身も、最初は「家族の中のことだから」「少し疑われただけで騒ぎ立てるのは大袈裟かもしれない」と考えました。
でも、今回はどうしても、許すことができませんでした。
私の尊厳、私の信頼、そして何より、私という人間そのものを否定されるような出来事でした。
次回の記事では、この件をきっかけに、2ヶ月の赤ちゃんを連れて実家へ帰った私に対して、義父母が私の両親にどのような対応を取ったのか、そしてその後の経緯について綴ります。
「絶対、負けない。」
私は、そう心に誓いました。
自分のために、子どものために、そして、同じように理不尽な扱いを受けたことがある誰かのためにも。